ながみねにっき

毎日22時に投稿される、雑感と、たまーーにミニコミ

自らを俯瞰してみることこそ今の世に必要なスキルだと思うんだなあ

私が週報を書くきっかけになった山本さん(id:ymmtdisk)が、興味深い記事を書いていたので、エッセイ形式で感想を書いてみた。

 

梅は咲いたが (2024W05) - はせる

『ものごとを客観視できるのは、貴方の強みだ』
私にそう説いたのは、前任のカウンセラーだったか。当時、自他あらゆる視点の波におぼれそうになっていた私にはその言葉が何よりの救いだったな。
山本さんの記事を読みながらそんなことを思い出していた。

私の場合は、鳥瞰図のような、幽体離脱してるような、そんな視点で自分をみることがあって。それに対して『恥』を感じるというよりも、むしろ「これが私かあ」と他人ごとのように興味をもっていた。

自身を冷静に俯瞰できる人は、自己分析に長けていると考えている。自分を俯瞰してみることは、別の見方をすれば『自分にとって都合の悪い自分と向き合うこと』で、冷静にいられることが難しい苦行に近しい行為だからだ。私がおもうに、これらを冷静に見つめられる目を持つ人は本当に少ない。どんな知識を得たとしても、それらを公使する自分自身とはどこかで向き合わないとならないし、どのみちそれから逃げたいと思うのが人というものかなと。

山本さんのように、他人から自分をみる視点を冷静に捉えられる人は、多くの人なら目を背けたくなるような己の未熟さとも、根気強く対話する体力があるのだと思う。

私の持論ではあるけど、自分と内面にある自我との関係性は、散歩中の犬と飼い主に似ていると考える。散歩中の犬は多くの場合、飼い主の意図する立ち振る舞いをしない。時には脇の草原に入ったまま先へ進まなかったり、時には道に座り込んで散歩を断固拒否したりする。それを進行方向へ導いたり、どうにかなだめて歩かせたりするのは飼い主の役目だ。飼い主を自分、飼い犬を内面にある自我だとすると、この自分を「操作」するという考え方にも説明がつくような気がした。(見当違いな解釈だったらごめんなさい)

この感覚は、恥じることではないし、むしろ他者より秀でた能力だと誇っても良いのではと思う。なんなら、異なる価値観の人々が関わり合う場面で必要になるのは客観視する視点だ。この感覚をあざ笑う側のほうが哀れに思える。

山本さんのような人にこそ、胸を張って生きて欲しいな。となんとなくではあるけど思ってしまう私なのだ。

 

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↓山本さんの週報について

書くことの整理 - はせる