ながみねにっき

毎日22時に投稿される、雑感と、たまーーにミニコミ

0802

朝。インスタグラムの投稿に、”いいね”がついてるのを見つける。このいいねに『あきらめるにはまだ早いぜ』と言われてる気がした。もう少し早く言ってくれたらいいのに。まだしばらく続けてみることにする。

地元ローカル新聞の朝刊に、自分が書いた投書が載った。出したのは、たぶん先月の半ばごろ。ロシアのウクライナ侵攻から考えた非暴力の重要性。文化を守ることについて。10年近く前からぼんやりとしたイメージはあったけど、それをようやっと言語化することができた。(書きやすいタイミングだったというのもあるけど)

 

ウクライナ侵攻がロシア国民の同意がないまま始まったことを考えたら。ロシア国民やロシアの文化を批判することは、あまり意味がないことくらいわかりそうなのに。結局は、戦争を仕掛けた国だからとそっくり批判される。いくら口では『政治と創作は別物でしょ』と言ったところで、不謹慎とコンプラの壁は簡単に越えられない。

ということは、今の日本で戦争に加担することは『推し』を戦犯に仕立てることになるのではないか。(こういうときに敢えてこの単語を使うところが自分の狡いとこ)推しに限らず、『日本の』という冠が付くものはそっくり非難の標的になり、ほかの国からも遠ざけられてしまう。そういう心理が、このロシアとウクライナの一件で浮き彫りになったんじゃないかな。例外なんて存在しない。むしろ、『非暴力を提唱してる国がこの有様か』なんて落胆されることすら想像できる。

私は、できればこのまま武力を持たない国であって欲しい。それに、武力を持ったら、これまでの報復とかなんとか理由つけて周辺の国を攻撃しようとするでしょ。それでまた同じ歴史を繰り返すんだ。本当に持続可能な社会を〜というなら、戦争をしないことを前提条件にしないと話しにならない。

(この辺の心理は、いじめ問題がなかなか解決しないことと構造的には似てる気がするんだけどね)

賛否両論いろいろあるとは思うけれど。たとえアメリカが沖縄から撤退したとしても、武力を持たない外交を続ける勇気だって必要だと思う。攻撃されるかもしれないなら、反撃できるようにすることは、『いじめに同調しないと、自分もいじめられるかも』って心理となんら変わらないんじゃないかな。(高校のせんせーも、そう言ってたし、個人的にもそう思う)

前例がないなら作ればいい。そんな簡単な話しじゃないけど、その実現に1番近いのは日本だと思うし、私は、そう信じてる。